トマス・ハーディ原作『日陰者ジュード』の映画化作品。
勤勉な青年ジュードが救いようもない悲劇に見舞われるお話です。”まさか”と思うような哀しい出来事に胸が切り裂かれそうになる映画です。
まさか、まさか、まさか…がーん( ̄□ ̄;)!!
この作品を観るためにはしっかりとした覚悟が必要かもしれません。
そうでないと「あのシーン」の衝撃には耐えられないかも。イギリスの階級制度やキリスト教的価値観の中で懸命に信念を貫いて生きようとするも、結局は既存の価値観に押しつぶされてしまうという、苦しいお話です。とにかく辛い。心をえぐられます(´Д`|||)
舞台がヴィクトリア朝(19世紀)なので、登場人物たちの衣装やインテリアなども見ごたえがあります。ケイト・ウィンスレットは本作のようなコスチューム・プレイが印象的な作品に多数出演しています。
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Contents
『日蔭のふたり』
監督・出演・製作 基本情報
監督:マイケル・ウインターボトム
出演:ケイト・ウィンスレット/クリストファー・エクルストン
制作:1996年/イギリス
▽原作はトマス・ハーディ。
▽ロマン・ポランスキー(『戦場のピアニスト』)が映画化した『テス』もハーディの作品。こちらも絶望的に暗い結末に打ちのめされるお話です( ̄_ ̄|||) どよ~ん
▼『テス』ナスターシャ・キンスキーの美しさもみどころ。(が、酷い目に合わされます)
これより後は完全にネタバレです。
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感想(ネタバレあり)
勤勉な青年ジュード
舞台はヴィクトリア朝時代のイギリス。
貧しい家に生まれたジュードは、少年時代に恩師から学問の大切さを教えられて以来、大学進学を夢見ながら、石工として働きつつ日々勉学に励んでいた。
http://www.imdb.com/title/tt0116722/
ジュードは皆が遊んでいようが休んでいようがひたすら勉強しているような青年で、ちょっと世間知らず、浮世離れしているようなところがあります。
まったく女性に免疫のないジュードはアラベラという娘に誘惑されて、あっさりとできちゃった婚をすることになるわけですが…。
アラベラは したたかで計算高い部分を持った女性ですが、この時代女性が一人で生きていくのは難しかったので、安定した生活を手に入れようという彼女なりの努力だったのだと思います。アラベラの手練手管にジュードはあっさり誘惑に負けてしまうのです。
二人の出会い方が面白い。
ジュードがいつものように本を読んでいると、投げつけられる「豚の臓物」 。
ジュードが周囲を見渡すと川で「豚の臓物」を洗っているアラベラがおり、 二人が初めて結ばれるのは「豚小屋」で、結婚のプレゼントも「子豚」。
ぶた、ぶた、ぶた、ぶた、やたら豚が出てきたのが印象的。
というのも、アラベラは豚飼いの娘なのでした。
決して知的とは言えないアラベラが、学問への情熱に燃えるジュードとうまくいくはずもない。豚の解体のシーンがそれをよく現していたように思います。
必死で豚と格闘している妻にドン引きして「(豚が)かわいそうに。」なんてKYなことを言ってしまう無神経さ。
アラベラは生きることに貪欲で、自分の欲望にも素直。 ジュードはそういった「俗」のものを毛嫌いし、見下してさえいるように見えました。あまりにも価値観が違いすぎるアラベラとの結婚生活は長くは続かず、彼女はある日ジュードを残して、新天地オーストラリアに旅立ってしまう。
クライストミンスターへ。そして運命の女性との出会い。
アラベラが去るとジュードは大学にあるクライストミンスター移り住み、石工として働きながら大学進学を目指して勉強を再開。
そしてこの町でいとこのスーに再会し、利発で明るい彼女にジュードは惹かれてゆく。
http://www.imdb.com/title/tt0116722/
スーを演じているのがケイト・ウィンスレット。 『タイタニック』に出演する前ですが、彼女がスクリーンに登場した途端、目が引き付けられます。当時からスターのオーラみたいなものがありますね。 大好きな女優さんの一人です。
スーはこの時代の女性の中では進歩的な考え方と感性を持ち合わせた女性。魅力的ではありますが、まだまだ古い価値観が支配する世の中ではトラブルも招きがち。
職を失ってしまい、別の土地に移ろうとしているスーのために、ジュードは少年時代の恩師フィロットソン先生を訪ねて、スーに教師の職を紹介してくれるように頼む。
フィロットソンはかつて学問の大切さを教えてくれた人でしたが、彼自身は大学進学をあきらめ、教師として働いていたのです。 フィロットソンの元で見習い教師として働き始めるスーですが、やがてフィロットソンはスーを愛するようになります。
人生をかけて、追い求めた夢が潰えて。
ジュードは大学進学の夢を叶えるために学部長に手紙を送るも入学を拒否されてしまう。 人生をかけて守ってきた夢が潰えてしまった瞬間。 どれほどジュードは絶望したことでしょうか。
当時は出身や身分によって人生が決められてしまうような時代。
どんなに優秀でもジュードの立場では大学進学という夢はかなえられない時代でした。 パブでラテン語を暗唱して見せるシーンは、痛々しくさえ感じました。
スーはフィロットソンについてクライストミンスターを離れていましたが、叔母の葬儀で再会たスーとジュードは互いの絆を再確認するものの、 二人の間にはいろいろありまして。一筋縄ではいかないスーなのです。
スーはフィロットソン先生と結婚してしまうことになります。
ジュードは父親代わりに、花嫁の引き渡し役まで勤めることに。
しかし、それでも惹かれあうジュードとスーは別れることができず、スーとフィロットソンの結婚生活はまもなく破たんしてしまう。
正直なところ、スーは面倒くさいなぁと思ってしまいましたヾ(ーー )ォィ
ジュードも。
アラベラに偶然再会したら、すぐに寝てしまうし。 何回誘惑されたら気が済むのだろう…(^▽^;)
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紆余曲折の末にようやく結ばれた二人。
愛し合うスーとジュードを止めることなど誰もできず、紆余曲折を経て二人は一緒に生活し始める。フィロットソンからの略奪愛です。
うーん。
スーにとってはフィロットソンは刺激が足りない物足りない男性なのかもしませんが、これは酷だなぁと思いました。二人にとっては恩人ですしね…。
同棲を始めてもスーはやはり面倒くさくて「清い関係でいたい。」と言い出します。
ひとつ屋根の下で暮らしておいて、それはジュードに酷というものですが、頭でっかちなスーらしい言葉でもあります。
そんな時にまたしても(勝手に)ジュードと復縁する気満々なアラベラが二人の前に現れます。アラベラはこの時点ですでに再婚&離婚を重ねています…。 そうとう逞しい女性ですね^^;
アラベラの出現に危機感を抱いたスーはようやく、ジュードに体を許し二人は結ばれます。
このシーンで、思いっきりケイト・ウィンスレットが脱いでます(ポロリあり)。 緊張のあまりベラベラしゃべってしまうスーが初々しくて好きなシーン。
ようやく二人は結ばれましたが、アラベラに、ジュードと別れた後で生まれていた息子ジューイを一方的に託されてしまう。 どこまでも貪欲に自分の幸福を求める女性アラベラ、恐るべし。
▼自分に正直、生きることに貪欲なアラベラ(右)
http://www.imdb.com/title/tt0116722/
なんだかんだとありつつもスーとジューイも順調に愛を育み、ジュードとスーの間にも子供も生まれます。
ここで、非常にショッキングな出産シーンあります。
ちょっと油断していたので、衝撃を受けました(((( ;゚д゚)))
ケイト・ウィンスレットの女優魂に感動しつつも、あれを目の当たりにしてしまったジューイは確実にトラウマになっていると思われます。そのくらいリアルな、映画ではなかなかそこまではやらないだろうっていうレベルの出産シーンです。
居場所がない家族は…。
結婚をせずに、未婚のまま同棲しているジュードとスーには幸せな生活は長く続きません。 この時代はキリスト教的価値観が非常に重んじられていた時代で、正式に結婚していない二人には居場所がないのです。
住む場所も仕事もなくした彼らはどんどん追い詰められてゆきます。
ジューイと、長女、生まれたばかりの赤ん坊を連れて、クライストミンスターに戻ってきますが、やはり彼らには居場所がありません。
冷たい雨の降る町を住む家を求めてさまよう家族を見て、同情した老女から家を借りることができたのですが…。
なんとスーは自ら結婚していないことを白状してしまう。
で、当然のごとくまた追い出されることになります。
気持ちはわからなくはない。
結婚してなくても愛は本物だと。 因習やしきたりに縛られるのはおかしい、と。
スーの最初の結婚はまったく愛のないものだったから余計に「結婚」に意味はないと考えるのでしょう。 でも、それをしたらどうなるか、想像できると思うんですね。
なのに、どうしてそれをしてしまうのか。
自分だけならともかく、幼い子供がいるのに。
スーは頭がいい。だからこそ色んなことを理屈で考えすぎる。 そしてその結果、大きな不幸を招き寄せてしまうことになるのです。
ジュードとスーを襲った、想像を絶する悲劇。
長男のジューイは家族の現状にとても心を痛めていました。
そんななか、スーは家が借りられない理由を「子供が多すぎるから。」とつい言ってしまうのです。 本当に「つい」。スーはそれほど深く考えずに口にしたのだと思いますが、それがきっかけとなり悲劇が起きます。
「子供が多すぎるから」と、 二人の幼子を殺め、ジューイは自ら命を絶ちました。
何が起こったのか理解できない、という風に呆然と子供たちを見つめるスーの表情、そして床の上を慟哭しながらのたうちまわる様子は観ているこちら側の胸も切り裂くようです。
「あなたの子供が私の子供を殺した。」
「一緒には暮らせない。」
スーはジュードの元を去ります。
あれほど古い考えを嫌っていたスーが、教会に通い、自分たちが罪を犯したせいで子供たちが死んだ、これは罰だと言います。
まるで人が変わってしまったかのように。
確かに、あれほどの悲劇を経験してしまったら、もう二度と同じ人生には戻れないんだろうなぁと思いました。
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ジュードとスーは結婚できなかったのか、それともあえてしなかったのか、という疑問。
ところで二人は結婚できなかったのか、結婚しなかったのか、どっちなんだろう?、と思ったわけです。
すでに破たんしているとはいえ、結婚している相手がいたからできなかった、とも思ったのですけれども、物語中でスーが「紙切れだけに囚われたくない。」というようなことを言うので、信念を持って事実婚を貫いたのか?とも取れます。
ジュードは結婚したいと言ってましたし。
調べてみると、原作ではやはり二人とも離婚が成立しているみたいです。
だとしたら、またちょっと感じ方が変わってきます。
あそこまで子供たちに苦しい思いをさせるなら、結婚してもよかったように思います。 紙切れだけのことで意味がないというのなら、家族のためにあえて信念を曲げるっていうものまた強さのような気もして。
アラベラは、子供たちの葬式の時にも復縁する気満々の様子でジュードの前に現れます。ジュードは、そんな二人の強い女性に翻弄され、叶わぬ夢にも翻弄され続けた感じでした。
スーの行動は『テス』のヒロインの行動に通じるものがあります。
「言わなくてもいいのに」っていうことを、信念に従って正直に言ってしまうところ。そうやって自らの信念に従って、まっすぐに生きようとする人々は世間の価値観や風習などに敵わず社会から容赦なく叩かれて、結果不幸になってしまう。
人間ってちょっとずるくてうまく立ち回れる方が、人生上手に生きられるんだろうなと思いました。スーとジュードに対して、 アラベラはこの後も逞しくしぶとく生き抜いていくのだろうなと思います。
子供の自殺というのは観る者にとって耐えがたい辛く苦しいシーンでした。
一気に3人の子供を失った親の苦悩も観ていて本当につらい。
ウツになると聞いていたので覚悟して観ましたが、これは相当なものでした。
以上、『日陰のふたり』の感想でした。
▽以下の記事でも取り上げています。
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